神前式のススメ「神社結婚式振興会」日本人なら神社の結婚式で

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神々が集う大いなる社
幸せ(四合わせ)の縁むすび 出雲大社相模分祠は、明治21年(西暦1888年)に、島根県御鎮座の「出雲大社」第80代国造・千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、報徳家であった草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとします。

当初の御鎮座地は現社地から離れた渋沢峠でしたが、昭和50年(西暦1975年)に現社地に御遷座なさいました。
以来、御社殿の増築、さらに境内地を拡張し大規模な植樹を施す等、益々その尊厳さを増して今日に至っております。 神話のふるさと出雲大社。大国主大神様の御分霊を祀る神聖な空間。
厳かで格調高い本格神前式が叶います。ご親族のみならず、ご友人もご参列いただけるゆとりある神殿です 【ご本殿】出雲大社の結婚式は本殿に設けられた天之御柱(あめのみはしら)を新郎新婦がめぐり、誓詞(ちかいのことば)を述べて夫婦の契りを交わします。
新しい人生の門出を迎えられるお二人の幸せを祈り、さらなるご縁をむすびます。 【巫女舞】出雲大社に古くから伝わるこの舞いは、太鼓と龍笛の音に合わせ、巫女が鈴を振り鳴らしながら舞うもの。
新郎新婦とご両家の繁栄を祈って御神前に奉納され、舞い終えると新郎新婦と参列者に向かって鈴を振り、神様から力を分けていただく(鈴祓いの儀)由緒正しい舞いです。 【出雲記念館】 挙式会場と披露宴会場が同じ敷地内に隣接しているので、ゲストさまの移動の負担も少なく、動線もわかりやすい。
大切なゲストの方にゆったりと快適に過ごしていただけるでしょう。 レンタル衣裳について

ご親族様向けに、留袖やモーニングなどのレンタルをご用意しております。
そのほか、紋付袴、色留袖、振袖、お子様衣裳、バッグや草履などの小物レンタルも取り揃えております。お気軽にご相談ください。
ご予約は挙式の1か月前までにお願いいたします。 着付・ヘアメイクについて

ゲストの方々のヘアメイクや着付けもおまかせください。ご希望のお客様は下記出雲記念館美容室までご予約をお願いいたします。
美容・着付のご予約
出雲記念館(美容室)
TEL:0463-84-1122(9:00~17:00)
そのほか施設・サービス

<クローク>
貴重品以外の手荷物やコートなどお式や披露宴でお使いにならないお衣裳類は、出雲記念館受付にて番号札と引き換えにお預かりいたします。
<控室>
挙式が始まるまでご利用いただけるご親族様の控室をご用意しております。(有料) <更衣室>
当日のお着替えにつきましては、更衣室をご利用ください。
<ベビーベッド・授乳室>
女性用お手洗い入口にベビーベッドをご用意しております。お子様のオムツ替え時にご利用ください。
また、授乳室はございませんが女性用の更衣室をご利用いただけますので、出雲記念館受付までお申し付けください。

二千年の祈りと感謝を物語る 自然に宿る神々に逢いたい 來宮神社は、古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、来福・縁起の神として古くから信仰されています。

 平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったとも伝えられ、現在では全国四十四社のキノミヤジンジャの総社として、信仰を集めております。
 御祭神五十猛命は熱海に鎮座される際、地元民と入来たる旅人を守護しようと神託をつげられたことから、伊豆に来る旅行者が多く参拝されます。
 国指定天然記念物に選定されております来宮神社のご神木「大楠」は樹齢2千年を超え、平成4年度の環境省の調査で、全国2位の巨樹の認定を受けており、幹周り約24米の迫力に人々は畏怖し、自然と手を合わせます。是非大楠に手を合わせ悠久の時の流れを感じてください。
【來宮大明神】
 古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、来福・縁起の神として古くから信仰されています。
奈良・平安期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は戦の勝利を祈願し、熱海来宮神社の御分霊を東北地方を始め、各地を統制して行ったと伝えられます。
【御祭神】
・大巳貴命(おおなもちのみこと)・商売繁盛・良縁招来・身体強健の神
・日本武尊(やまとたけるのみこと)・武勇と決断の神
・五十猛命(いたけるのみこと)・樹木と自然保護の神 天然記念物『大楠』日本屈指のパワースポット。
●健康長寿・心願成就
●幹を1周廻ると寿命が1年延命する伝説
●心に願いを秘めながら1周すると願い事が叶う伝説

樹齢2千年以上という長い歴史のなかで、多くの人々が、この大楠から神徳(しんとく)と恵みを戴いて助け導かれて来た事でしょう。悩みを抱えたり、願いを叶えたいとき、大楠の前で手を合わせ祈り、自分自身をも見つめ直す良い機会と成ります。 【神前式のご案内】 【式彩】
結婚式挙行に際して、ご本人様たちの準備の慌ただしさに加え、ご親族や参列される方々の待合など挙式前後におけるもてなしなどができる場所として、來宮神社 『式彩』 がございます。
來宮神社で結婚式を挙げられる方だけが自由にご利用いただける、静謐で上品な日本庭園と日本家屋の空間です。 【結婚式式次第】
先、本殿参進 御両家の方々を本殿まで御案内致します
次、修祓(しゅばつ)の儀 御参列の皆様をお清め致します
次、祝詞奏上 お二人のご結婚を神様に御奉告いたします
次、巫女舞奉送 ご結婚を祝し、神女が舞を納めます
次、三三九度の盃 誓いの盃を交わします
次、誓詞奏上 御神前で夫婦の誓いを致します
次、新郎新婦玉串拝礼 玉串を奉りて拝礼
次、御媒酌玉串拝礼 ご媒酌人をお立ての場合皆様とご一緒に玉串拝礼
次、指輪交換の儀 新郎新婦指輪を交換致します
次、親族固めの御盃 お二人の門出を祝い皆様で神酒を頂きます
次、斎主挨拶 斎主がお祝いのご挨拶を致します 【初穂料】
・大雅(おおみやび)150,000円・・・雅楽生演奏 参道参進 神楽舞「豊栄の舞」「早神楽」大広間(100名以内)を2時間使用
・結び(むすび)100,000円・・・雅楽生演奏 参道参進 神楽舞「早神楽」大広間(50名以内)を1時間使用 ・ガーデン神前式(五色の杜)・・・150,000円~・・・雅楽生演奏 参道参進 神楽舞 大広間(50名以内)を使用できます。
                         ※雨天時、挙式料5万円を返金いたします。

日本三大弁財天 昔、御窟を本宮と言い、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と言った。社伝によると欽明天皇13年(552年)「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり海運、漁運、交通の守護神として祀られてきた。文武天皇4年(700年)役小角と言う修験者がこの御窟に参篭して神感を受け、その後泰澄(たいちょう)、道智(どうち)、弘法、安然、日蓮等の名僧が次々行を練り高い御神徳を仰いだと伝えられる。その後仏教との習合によって金亀山与願寺と号し、源頼朝は鳥居を奉納し、北条時政は参籠して奇瑞を蒙り、竜の三鱗を授けられ、それを家紋とした。また後宇多天皇は蒙古軍を討ち退けた御礼とて、江島大明神の勅額を奉納されるなど朝廷及び、武将をはじめ庶民の信頼を篤く、江戸時代には江島弁天への信仰が集まり江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。
 現在でも境内各所や社蔵の浮世絵等で当時の様子を窺い知ることが出来る。特に中津宮には、江戸堺町中村座、江戸葦屋町市村座、江戸新肴場和泉甚左衛門が奉納した石灯籠があり、江ノ島入口には数多くの寄進者達の名前を刻んだ青銅の鳥居などがある。しかし神仏習合の時代も江島大明神としての御神威はいささかも曇り給うことなく御神徳はいよいよ広大に仰がれた。
 明治初年の神仏分離によって仏式を全廃して純神道に復し、改めて江島神社と号し現在に至る。
 御祭神は福岡の宗像大社や広島の厳島神社と御同神である。天照大神が須佐之男命と誓約をされた時に生れました神である。
 この三女神は江島大神と称し、海運、漁運、交通の守護神とされ古くは江島明神と呼ばれていたが、その後仏教との習合によって弁財天女とされ江島弁財天として信仰されるに至り、海の神、水の神のほかに幸福、財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神と仰がれた。明治初年の神仏分離によって純粋な神社信仰に復したが江島弁財天の信仰も盛んで商売繁盛、財宝福徳、芸道上達等の諸祈願を託す人々が多い。 ご祭神は、天照大神あまてらすおおみかみが須佐之男命すさのおのみことと誓約された時に生まれた神で、三姉妹の女神様です。

・奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
・中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
・辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
【江島神社のシンボル「弁天様」をお祀りする奉安殿】

辺津宮境内の奉安殿には、安芸の宮島、近江の竹生島と共に「日本三大弁財天」に数えられる「八臂弁財天(国指定重要文化財)」と「妙音弁財天(裸像の弁財天)」の2体の弁財天が奉安されています。江戸時代には弁財天の御開帳の度に群参する人々の姿が浮世絵に残っており当時の様子を窺い知ることができます。 【江島神社の社紋】
江島神社の社紋は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の中の三つの鱗」を表現しています。

※『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています。
湘南・江の島で潮風薫る結婚式 ご鎮座1450年を数える由緒ある神社。海と緑に囲まれた江の島は、古来より弁財天と龍神のロマンスを秘める伝説の島として知られている。家族や友人に見守られながら、朱も鮮やかな中津宮での挙式は、感動もひとしおだ。

~川崎山王社~和と勝 当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。
 社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊の折当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代には将軍家より社領七〇〇石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。
 足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二〇石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年 (一四〇四) の大般若経六〇〇巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年 (一四五八) 銘の鰐口は、河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。
 秀吉公および江戸幕府からは二〇石を賜りました。とくに家康公江戸入部に際しご巡見のおり当神社にご参拝あり、随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。
 例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。
 当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶応四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折の殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。
 旧御社殿は、江戸中期の宝永年間に田中丘隅の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが、昭和二十年の空襲により灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリ-ト神明造り、延べ面積一〇一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。
 なお当神社は、昭和四十一年、神社本庁より「別表に掲げる神社」に指定されました。 ■ご祭神
【主祭神】
武甕槌神 (たけみかつちのかみ)
【配神】
経津主神 (ふつぬしのかみ)菊理媛神 (くくりひめのかみ)
伊弉諾神 (いざなぎのかみ)伊弉冉神 (いざなみのかみ)
【ご神徳】
稲毛神社の御神徳は勝と和です。
武甕槌神・経津主神は、人生の試練・困難に勝ち、病気に打ち勝つ力を与えて下さいます。 菊理媛神、伊弉諾神・伊弉冉神は、和の心を与えて下さいます。
【川崎山王祭に於ける神事】
稲毛神社は景行天皇との縁を伝える川崎の古社ですが、江戸時代までは「河崎山王社」と呼ばれ、東海道川崎宿の鎮守でした。 その祭「川崎山王まつり」は「孔雀」「玉」と呼ばれる男女2基の神輿の渡御を中心に行われます。そこには、神の結婚、懐妊、御子神の誕生というストーリーが隠されています。 【有名人慈善絵馬展】
1/1~1/7まで境内にて、画家・書家・芸能人など各界で活躍する有名人の手による絵馬約200枚を展示しております。
展示された絵馬は、入札によりご希望の方へ授与され、益金は社会福祉事業に寄託されます。 【神前式について】 千年の歴史につつまれて、お二人の歴史が始まる

古来より稲毛神社は「勝」と「和」の神様として人々に信仰されてきました。 新しい門出をされるお二人が、協心協力の「和」をもって支え合い、信じあって、さまざまな困難、試練に打ち勝ち、素晴らしいご家庭をつくりあげるようにお祈り申し上げます。 式次第
•修祓•祝詞奏上
•三献の儀•誓詞奏上
•指輪の儀•玉串奉奠
•浦安の舞 【結婚奉告祭】
既に結婚式を挙げられた方や、結婚式は挙げなかったけれど神前に結婚を奉告されたい方には、結婚奉告祭をお仕えいたします。ご参拝の際は、ご本人お二人だけでもご親族やご友人にご参列いただいても結構です。
■結婚奉告祭の式次第
•修祓
•祝詞奏上
•御鈴の神事
•拝礼

遥かに伊勢の神宮を拝み奉る 創建以来の内宮・外宮二社殿形式 当神社の創建は、江戸時代初期の元和年間(1615~1624)のことであると伝えられております。
元和六年(1620)伊勢の国の人・山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅清左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時このあたりを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したのです。そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり現在の伊勢原市街の基礎が形成されました。曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉祭することにいたしました。こうして創建された当神社の御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになりました。
伊勢の神宮では、天照皇大御神が内宮に、豊受姫大神が外宮に、それぞれ奉祭されています。当神社もこれにならい両宮が別々に奉祭されています。全国でも珍しい社殿構造は、江戸時代に編纂された「新編相模風土記稿」にもみられ、創建以来の伝統として現在も受け継がれております。当神社境内には神宮遥拝所が設けられ、当地より伊勢の神宮をお参りすることができます。 ご祭神
内宮(ないくう)…天照皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
外宮(げくう)…豊受姫大神(とようけひめのおおかみ) 境内社 春日神社
天児屋根命(あまのこやねのみこと)を御祭神とし皇室の御祖先天照皇大御神を奉祭する神社では、皇室を代々摂政関白としてお助けした藤原氏の氏神春日神社があわせておまつりされていることに由来します。

境内社 稲荷総社  宇迦之御魂神(ウカノミタマ)をご祭神として奉祭。五穀豊穣、商売繁盛、病気平癒の神様として篤い信仰を受けています。 シンボルマーク「トキオコシ」
このシンボルマークは当宮の内宮と外宮を表現したものです。丸と四角・赤と白・人と自然をイメージしてデザイン化されています。「ひとりよりふたり」「ひとつよりふたつ」のテーマによりお互いが存在して、はじめてつり合いがとれ、平穏な世の流れを生み出します。 【神前式のご案内】 伊勢原駅近くにあり、内宮・外宮の二社殿を持つ神社。木の香りが清々しい社殿での挙式は1日1組限定。巫女による古式の「豊栄の舞」も執り行われ、神前でふたりの門出とこれからの幸せを真心込めて祈ってくれる。
神前結婚式 初穂料:30,000円
※上記初穂料には、祈願料・控室使用料が含まれます。
※神職1名・巫女2名の奉仕になります。

座間郷総鎮守
鎮守の杜での厳かな挙式を  鈴鹿明神社は、遠く第29代欽明天皇の御代に創祀せられたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正倉院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。

 鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央一丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座していた。境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭和三十九年に社殿の東側草地を発掘したところ、1500年以前の地下式住居跡(約7坪)が発見され、また境内の樫の古木は最大のもので樹齢九百年といわれ、座間市原始林の一部であるところから、古代の祭祀遺跡埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日をしのばせる。

 明治2年12月、神奈川県下20大区、27ヶ村(座間市入谷村、座間宿村、新田宿村、四ッ谷村、新戸村、磯部村、下溝村、上溝村、当麻村、田名村、大島村、下九沢村、上九沢村、相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田、矢部村、同新田村、渕ノ辺村、鵜ノ森村、上鶴間村、下鶴間村、柏ヶ谷村、栗原村、上今泉村、下泉村)の郷社に列せられた。これは現在の座間市、相模原市の全域と大和市と海老名市の一部を占める広域なものであった。さらに昭和43年1月、神奈川県神社庁献幣使参向神社となり、現在に至っている。 【御祭神】
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)/素戔鳴尊(すさのをのみこと)
弘治2年京都祇園八坂神社より素戔鳴尊を合祀する。
【例大祭 8月1日 】
毎年8月1日に行われる年間の中でも最も重要なお祭り(大祭)で、献弊使(けんぺいし)をお迎えし幣帛料をお供えし、氏子崇敬者の安泰をお祈りする神事です。祭典は午前9時半に斎行し、朝11時から夜9時30分まで神輿が氏子区域内を巡幸します。 【 夏越大祓式 6月30日・年越大祓式12月27日】
大祓とは、氏子崇敬者中の人々の心や身体に色々なことが起こる原因を取り除き幸福と繁栄を迎えるために諸々の罪穢を祓い清め清明心を自己の内に培う神事です。毎年6月30日午後3時より、12月27日午後1時より年二回大祓式を厳修し、氏子崇敬者の皆様からお預かりした人形を水清き河海に流し清めるか聖浄地において御浄火にふして罪穢消滅を祈願致します。 【神前式のご案内と式次第】 日本で最初に体と心を備え持った神と言われますのは、伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦神であります。
伊邪那岐命をお祀りいたします鈴鹿明神社で神前結婚式を・・・・・
当社併設の鈴鹿明神参集殿美容室、写真室にて、衣裳・着付・ヘアメイク、記念写真撮影が可能。
社殿内空調設備完備 一、参進・・・参集殿入口より、神職・巫女の先導により、新郎新婦と共に本殿へ参進致します。
一、修祓・・・報鼓の後、神職が祓詞(はらえことば)を奏上し、新郎・新婦、参列者の皆様方をお祓い致します。
一、献饌・・・神様に神饌(しんせん)をお供え致します。
一、祝詞奏上・・・斎主が神様へお二人の結婚奉告と門出を祝福する祝詞を奏上いたします。
一、浦安の舞奉奏・・・巫女により、神前神楽「浦安の舞」が奉奏されます。
一、誓盃の儀・・・新郎・新婦は、巫女より大中小三つの盃に注がれたご神酒を酌み交わします。 一、指輪の交換・・・新郎・新婦は、巫女より指輪を受け、新婦・新郎の順で指輪を交換致します。
一、誓詞奏上・・・新郎・新婦は、神前にて、巫女より誓詞を受け、結婚生活を始めるに際しての誓いの詞を奏上いたします。

一、玉串奉奠・・・新郎・新婦、媒酌人、親族ご代表の順に、 神前に玉串をお供えし二拝二拍手一拝の作法にて拝礼いたします。
一、撤饌・・・神饌を撤します。
一、斎主一拝・・・最後に神前結婚式終了の挨拶として、神職に合わせまして神前に一礼していただきます。

相模国総社 人皇十代崇神天皇の頃(紀元前1世紀頃)、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を「柳田郷」と名付け、櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊 を守護神として 祀り、柳田大明神と称して地域の安寧・弥栄を祈願したのが創始と伝えられています。
平安時代に入り相模の国府 (今の県庁) が柳田郷に置かれると、柳田郷の地名も相模の「国府」と称せられるようになりました。
大化の改新以来、国司は任国に着くと先づ神拝と言われる国中の主たる神々を巡拝し、国幣を頒つ制度がありましたが、巡拝には大変な日数と費用・人員を要するため、主たる神々の御分霊を合わせ祀る社、即ち総社を設ける習いとなりました。
相模国の場合、柳田大明神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の五社の御分霊を合わせ祀り「相模国総社」が成立し、また六ヶ所の神社合わせ祀る所から、国府六所宮とも称せられるようになりました。
相模国府祭 (神奈川県無形文化財) もこの時代から「お祭り」の性格を持つようになったと言われております。
そして鎌倉時代になると源頼朝公の崇敬誠に篤く、『吾妻鏡』によると
治承四年 (1180年) 、平家の大軍が平維盛を大将として富士川に攻寄った際、国府六所宮にて戦勝祈願を行う。
同年、源頼朝公は北条時政等二十五名の功賞を行う。その規に依り、文治二年 (1186年)、本殿の改造が行なわれる。
建久三年 (1192年) 、源頼朝公の実子実朝の安産祈願の為神馬納「総社柳田」と記す。
以上の様に源頼朝公は総社六所宮に対する敬神の念誠に篤く、また相模国を代表する神社として格別な崇敬を寄せております。
戦国時代には戦国の雄北条早雲の崇敬も大変篤く、御子氏綱公が永正年間 (1504~1521年) に六所宮の御社殿御造営、また四代左京大夫氏政公が御本殿の御修復を行い、この本殿が現在のものであります。
天文十三年 (1544年) の北条氏康公の寄付状があり、相州六所領六十五貫七十八文とあります。また徳川家康公も相模国総社六所宮に対する崇敬の念誠に篤く、天正十九年 (1591年) 、武運長久の祈願として六所領五十石(15000坪)寄進の御朱印状があり、三代家光公からは慶安元年 (1648年)、 国家安全祈願として五十石の御朱印状があります。
以後、歴代の将軍の特別なる祈願と六所領の寄進があり、現在に到っております。 神奈川県指定重要文化財 六所神社 夫婦御神像
平安時代後期(十一世紀)の作で、相模国の国司奉納と伝えられ、御祭神「櫛稲田姫」様と「素戔嗚尊」様と伝えられております。
神奈川県下でも最古の御神像の一つであり、御夫婦の御神像は大変珍しく貴重であります。
また、夫婦円満・縁結びの神様としても厚く信仰されており、全国より多くの参拝者が訪れます。
※非公開 【5月5日 相模国府祭】
毎年五月五日に六所神社、神揃山、逢親場(馬場公園)にて斎行されるお祭り、神奈川県指定無形民俗文化財に指定されております。
平安の御代、都から各国々に派遣された国司は任国に着くとその国の平和や五穀豊穣を祈り国中の主な神々に祈願をしました。国々の中心は国府と呼ばれ、国司を始め役人が常駐し行政の中心として繁栄しました、国司は国府近くに総社を設けて国の主な神々の御分霊をお祀りし、日々の祈願所といたしましたこれが総社の起源になりました。 湯津爪櫛の由来は、日本神話の中、八岐大蛇退治の条りにあります。
湯津爪櫛の御守りは、櫛稲田姫命様の強い霊力が籠る高い神秘力持つお守りで、
• 女性が身に付けると、奇魂の霊力が増し、不慮の災難、事故、いやがらせから身代わりとなって守ってくれます。
• 女性が身に付けると、御神縁の良縁の道が開かれます。
• 女性から困っている男性に真心こめて念じ贈ると、男性に霊力が湧き、困難打開の道が開かれます。
• 男性から女性に贈ると「かけがえのない大切な女性」の証となります。 【神前式のご案内】 六所神社御社殿にての神前結婚式を承っております。
格調高い本格的な和の結婚式は、今日まで多くの方々に喜ばれております。ご参列はご両家で50名程まで可能です。 一,参進
新郎・新婦式参列者に社務所玄関前に集合していただき、手水で手と口を清めて神殿に進みます。
神職と巫女の先導により神社拝殿に進み、着席していただきます。
一,修祓の儀
神職が新郎・新婦並びに参列者を祓い清めます。
一,祝詞奏上
神職が神前にて祝詞を奏上いたします。 一,三三九度誓盃の儀
新郎・新婦は、巫女より盃を受けとり誓いの盃を交わしていただきます。
◎新郎・新婦は、その場所にてご起立をして頂き三つの盃を交わします。
一,誓詞【ちかいのことば】の御奉読
◎新郎・新婦は御神前に進み、誓詞の御奉読をして頂きます。 一,指輪の交換
◎同じく神前にて神職より指輪を受けとり新郎から新婦へ、新婦から新郎への順で指輪をして頂きます。
一, 神前神楽 浦安の舞 
◎巫女が神前にて舞を奉奏いたします。
一,玉串奉奠
玉串を神前にお供えし、御拝礼をしていただきます。 一,親族盃の儀
新郎新婦及び参列者全員で乾杯を致します。
一,退下

平服で二人だけの結婚式。古式ゆかしい和装での結婚式 。六所神社が二人の門出を祝福します。

海に囲まれた杜の中で、波音を感じながらのリゾート和婚(森戸神社) 今から約850年前の永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。
治承4年(1180年)、そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝公は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられています。
「吾妻鏡」によれば、歴代将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行ったといいます。
災厄が生じると加持祈祷が行われ、*七瀬祓の霊所としても重要な地であったと記され、源氏はもとより鎌倉要人からも篤い信仰があり、特に三浦党の祈願所でもありました。
また、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正19年(1591年)には徳川家康公より社領七石が寄進されました。
延宝2年(1674年)に徳川光圀公、明治25年(1892年)には英照皇太后陛下のご参拝を仰ぎました。
現在も葉山の総鎮守として、町内はもとより近郷近在より多くの参拝者が訪れています。(神社庁指定神社) 【風光明媚】
森戸神社は森戸の鼻と呼ばれる相模湾に突き出た形状の土地に立ち、海に囲まれて潮風や波音を感じる神社です。
神社裏からは世界遺産 富士山や江の島も望め、その景色もお二人を祝福してくれます。 【フォトスポット】
お天気に恵まれると、神社裏手より青々とした相模湾越しに世界遺産 富士山や江の島を望むことができます。
また、夕刻には神々しく輝く夕陽が望め、「かながわ景勝50選 森戸の夕照」に認定されています。
神社と海岸を繋ぐ朱色のみそぎ橋は「かながわの橋100選」で、思い出の1枚を撮るのに人気の場所です。
他にも白く輝く浜辺での撮影など沢山のフォトスポットがございます。  【参列人数】
ご新郎様側  30名
ご新婦様側  30名
ご新郎様 ご新婦様 ご媒酌人様合わせて最大60名様までとさせていただいております。(60名様以上のご参列はご遠慮ください。)
60名様まで着席にてご参列いただけますが、30~40名様くらいまでが程良い人数です。 一日の流れ 【挙式2時間半前】
新郎新婦お支度の為ご来社 
境内参集殿にてお支度をお済ませいただきます。                                        【挙式1時間前】 
新郎新婦ロケーション撮影
富士山の見える神社裏や朱色が美しいみそぎ橋、白く輝く砂浜などお二人での撮影をお楽しみください。 【挙式30分前】   
親族紹介  
ご両家の皆様のお顔合わせとなります。
【神前婚礼の儀「幸せ結び」】
最大60名様までご参列可能で、挙式は「幸の儀」と巫女舞と雅楽演奏奉仕の含まれた「結の儀」をお選びいただきます。 
挙式5分前の参進の儀から始まり、お開きまで挙式のお時間は約30分程度となります。 【挙式後】
挙式後はご参列の皆様と共に御本殿前にて記念撮影をし、ご披露宴会場までご移動となります。
※お着替え等でご利用いただきました参集殿は、挙式後30分までご利用いただけます。

「お馬流し」と厄除けの杜 本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。
伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。  
また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。
一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました 先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。  
米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。  

こうして50年近くの長い間、仮遷座を忍ばれながら氏子とともに苦楽を共にされた大神様の御神恩に感謝の誠を捧げるべく、氏子崇敬者の浄財を募って御造営されたのが現在の御社殿です。まさに本牧神社の戦後の歩みは「ハマの戦後復興史」そのものと云えましょう。  

大日靈女命は日本書記に天照大御神の別名として大日靈女貴神(おおひるめむちのかみ)として御名が記されていますが、当神社に於いては古くより大日靈女貴命様の御名で手厚くお祭りされています。  

御神徳は、「日の大神」として万物の生成を司り、遍く人を照らし導かれる神様です。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原よりこの国土に降臨される際には、大御神自ら斎庭(ゆにわ)で育成された稲穂を授けられ、この故をもって我が国に稲作文化が定着し繁栄するに至りました。また、大御神は、国民が生業とする様々な産業をお開きになり、日の本の国の繁栄はまさしく大御神の御神徳によるものと、私たち日本人は信じてきました。

当神社の御祭神としては、「本牧沖合の大海原から顕現された」との社伝から、漁業や海運を生業とする人々には「大漁満足」や「航海安全」の神として、また、農耕に携わる人々には豊作の神として、地域の安全と繁栄を守護される御神徳が古くから篤く信仰されてきました。  

また室町時代より連綿と受け継がれる「お馬流し」は、地域社会全体から氏子・崇敬者一人ひとりに至るまで、あらゆる災いを祓い退け、清らかで健やかな日々が過ごせるように祈る力強い神事です。この特徴的な神事を氏子と一体となって厳修し続けてきた当神社は、その故に厄除け・除災招福・方除け・家内安全・商売繁盛・事業繁栄・心願一切成就等の幅広い御神徳を景仰する多くの参拝者で、御社頭は常に賑わいを見せています。

【御祭神】
大日霊女貴命 ( おおひるめむちのみこと )
【相殿神】
建速須佐能男命 (たけはやすさのおのみこと)
木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
大山咋命 (おおやまくいのみこと)
【相殿摂神】
八王子大神 (はちおうじおおかみ/おはちょうじさま)
【お馬流し神事】
本牧神社の「お馬流し」神事は、永禄9年(1566年)から400年以上も受け継がれており、現在、神奈川県無形民俗文化財、及び神奈川県民俗芸能五十選に指定されています。  「お馬さま」とは、茅(カヤ)で作った馬首亀体(=首から上は馬で胴体は亀のかたち)で、頭部からの羽や、長い尾を含めると体長約一メートル。馬首には白幣、口には稲穂をくわえ、亀体の中央には大豆と小麦をふかして、黄名粉をまぶしたお供えと、神酒を白素焼き皿に容れて神饌とします。 【良縁結び祈祷】
毎月五日・十日・十五日・二十日・二十五日・三十日 ※ご「五」と、縁=えん「〇」のつく日 
◆願 意◆ 良縁成就・職縁(就職)成就・悪縁断ち
速玉之男神は、良き縁(えにし)をむすび給う神様。御本殿での御祈祷ののち、御神木である榎(えんのき)の下に祀られる「熊野速玉社」に参詣。良縁むすびは榎の下を右回りに、悪縁断ちは左回りに回って祈願して戴きます。御祈祷札とともに「縁の木守」を授与します。
神前挙式のご案内 広壮で清々しい御社殿
明るく開放感あふれる境内 充実した施設を備えた本牧神社の神前結婚式。
妙なる雅楽の音色にの中で、お二人の門出を大神様が祝福してくださいます。 【広く明るい御社殿は横浜市内最大級の権現造り】
◆御式では雅楽の生演奏と巫女が浦安の舞を御奉仕致します。
◆最多で50名まで、御両家御親族はもとよりご友人方もご参列戴けます。
◆下拝殿(起立席)へは更に50名程度の参入・立ち合いが可能です。
◆空調完備。快適な環境で挙式が可能です。
◆横浜市中心部(関内地区)から車なら10分で移動可能。
◆マイクロバス・自家用車等30台程度までの駐車が可能です。
◆駐車場から御社殿の間はスロープ完備のバリアフリー。下拝殿までは車椅子での参入・参列が可能です。
【本牧神社斎館】
重要な祭事で神職がお籠りする大切な施設「斎館」を、新郎新婦御両家の控室として特別に開放。挙式前の待ち合わせや時間のご調整、挙式後の小休止にご利用戴けます。

関東随一大霊験所
1290有余年の歴史を誇る 横浜の祈願所 聖武天皇神亀元甲子年(西暦七二四) 全寿仙人が熊野山に居住し、梛木の大木の洞中にて修行の後、その基を開いた。熊野山の中腹に鎮座し、和歌山県熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)の御祭神と御一体である。
仁和元年(西暦八八五)七月には、光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられ、隣地には別当として全寿院法華寺が建立された。
数多くの古神事の中でも現在続行されて居る筒粥神事は、神託により天暦三年(西暦九四九)より実に千年以上続けられている神事で、正月十四日に氏子が集まり二十七本の筒と梛木の葉と米を混ぜて粥を作り、一年間の農作物の出来栄えと其の年の吉凶を占うもので、横浜市の無形民俗文化財にも指定されている。この他にも承安四年(西暦一一七四)より、干天が続いた際に行なわれた「雨乞神事」や元暦元年(西暦一一八四)より悪魔退散、無病息災を祈った「しめよりの神事」等が行われていたが、どちらも現在では言い伝えのみが残っている。
観応二年(西暦一三五一)六月十七日、雷火のため社殿は消失したが、御神体・社宝は「の」の池に投入され無事であり、特に貞治三年(西暦一三六四)の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えている。例えば、勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)、参向儀式の行われた式坂、更に「い」の池、「の」の池 ・「ち」の池の故事等、枚挙にいとまがない。
享禄二年北条早雲公、慶長四年徳川家康公、寛永十九年家光公、寛文五年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め、代々の将軍家の崇敬は極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。明治元年神仏分離の際、熊野神社と隣接の法華寺とに二分され、明治三年には県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治六年三十三ケ村の郷社に列した。近年では、平成十七年に「平成の大修造」、平成二十二年に「平成の大修造第二期」と称し、百二十年振りの氏子総勧進による社殿の造営事業・手水舎の改築・境内整備等を実施し、面目を一新した。関東地方における熊野信仰の根拠地として、また横浜北部の総鎮守の宮として古代より現在に至るまで広く篤い崇敬を受けている。

古く「古事記」や「日本書紀」の中で、当社のご祭神であります伊邪那美尊は伊邪那岐尊と、神様として初めて夫婦の契りを結び、国生みや神生みをなさったことが描かれております。その由縁から当社は結びの神としても様々な方に篤く信仰されています。
当社に残っている「熊野山縁起」の中に「一度参詣して頭をたるる輩は、現世には七難をはらひ、七福を生ず、諸願叶はずと云うことなし」という記述があり、また熊野大神は物事の最初を生み出した「ものうみ」の神様でもありますので、開運厄除け・子育て・心願成就・産業信仰など様々な御神徳があるとされています。 熊野神社の御社紋「八咫烏(やたがらす)」は熊野大神のお使いであり、古事記や日本書紀では、熊野山中にて初代神武天皇の東征を手助けする為に遣わされた御神鳥として記されています。太陽を招き夜明けを呼ぶ鳥、迷いや悩みから明るい希望へ導く鳥といわれており、必勝と選手の健康を祈ってサッカーだけでなく多くのスポーツ関係者やファンの方が遠方からもお参りに訪れ、多くの人々に親しまれています。

神社結婚式のご案内

結婚式は、結婚するふたりの「心」と「心」を繋ぎ、
ご家族同士の「心」と「心」をも繋ぐ大切なもの。
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