神前式のススメ「神社結婚式振興会」日本人なら神社の結婚式で

お問合せ

神社一覧 神社一覧

五龍神のすまう田無の杜 田無神社の創建は、正応年間(1288〜1293)あるいは建長年間(1249〜1256)と伝わり、いずれも13世紀・鎌倉時代とされています。当初は現在の鎮座地より北へ1キロほど離れた谷戸(註1)の宮山に鎮座しており、尉殿大権現と称しておりました。
時代は下り江戸時代になると、慶長11~12年(1606〜1607)の江戸城増改築に際して、漆喰の原料である石灰運搬のために青梅街道が開かれました。これに伴い、幕府の命令により谷戸の住人たちは青梅街道沿いに移り住むこととなり、宿場町として田無の町の歴史が始まりました。
このような歴史の経緯の中で、宮山に鎮座する尉殿大権現は、元和8年(1622)に上保谷(住吉町)に上保谷尉殿権現(現尉殿神社)として分祀(註2)されます。その後の「遷座・分祀」の歴史は諸説あり、はっきりとしたことは分かっていません。
※下記に記した遷宮の年代は、田無神社現宮司(賀陽智之)の解釈によるものです。

「公用分例略記」(下田家所蔵)によると、正保3年(1646)に田無(現在の地)に、宮山に鎮座する尉殿大権現、もしくは上保谷尉殿権現のどちらかもしくは両方から、御霊が分祀されます。その際に分祀されたのが級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)の両方だったのか、男神の級津彦命(しなつひこのみこと)のみを分祀されたかは分かっていません。保谷の伝承によると上保谷尉殿権現が男神、田無尉殿権現を女神としていますが、田無の伝承では男神・女神が逆に解釈されています。明治の初め神仏分離令により、上保谷尉殿権現は尉殿神社と改称しますが、それ以降は女神である級戸辺命(しなとべのみこと)を御祭神としています。また、「本社再建、拝殿・向拝再建」(下田家所蔵)「本社拝殿棟策」(田無神社所蔵)「田無神社記」(田無神社所蔵)「神社明細書」(田無神社所蔵)によると寛文10年(1670)に谷戸の宮山から尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座(註3)されたとあります。
① 1646年に分祀された後に、1670年に遷座された
② 1646年の分祀は無く、1670年に遷座された
③ 1646年は遷座であり、1670年の遷座はなかった
現存している古文書から「遷座・分祀」の歴史を読み解くと、上記の①、②、③の可能性があります。田無神社所蔵の書物に1670年遷座と記されていること、鎮座当初の本殿(現野分初稲荷神社)が1658年に創建されたと田無神社に社伝として伝わっていることから、田無神社では①の説を有力とみています。
江戸末期までの神仏習合の時代まで、尉殿大権現は西光寺(現総持寺)が別当を務め、倶利伽羅不動明王像(龍神)を御神体としていました。明治元年(1868)の神仏分離令によって、御神体の倶利伽羅不動明王像は西光寺本堂に奉安遷座することになります。日本の神として垂迹(すいじゃく)したのが級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)であり、本地仏が倶利伽羅不動明王であるとされています。田無の古文書に、倶利伽羅不動明王だけでなく、11面観音菩薩も本地仏である記述が残されていますが、はっきりしたことは判明していません。元和8年(1622)に宮山の尉殿大権現から分祀された上保谷村鎮守尉殿権現社(現尉殿神社)に祀られていた御神体も倶利伽羅不動明王像でありましたが、現在はかつての別当寺である寳晃院に収蔵されています。また、江戸時代に尉殿権現社の拝殿に掲げられていた、「尉殿大権現神号額」は西光寺(現總持寺)に引き取られました。
その後、尉殿大権現は明治五年(1872)に村内の熊野神社、八幡神社を合祀(註4)し、田無神社と社名を改めました。その際に、大国主命(おおくにぬしのみこと)、須佐之男命(すさのおのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、八街比古命(やちまたひこのみこと)、八街比売命(やちまたひめのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)等、国内諸神をお祀りしました。さらに明治43年に町内の5つの小社を合祀、昭和24年に大阪市阿倍野の大鳥神社より大鳥大神(おおとりのおおかみ)が分祀され現在に至っています。谷戸に鎮座していた弁天社、白山神社、熊野神社、稲荷神社も田無神社に合祀されたという記録が残されていますが、詳しいことはわかっていません。

註1 谷戸とは関東に多く見られる地名で、湿地、湧水など水の豊富な土地を指します。
註2 分祀とは神社の祭神の御魂を別の場所にお分けして、新たにお祀りすることです。
註3 遷座とは祭神そのものを別の地にお移しすることです。
註4 合祀とは複数の神社の祭神を、一つの神社に合わせてお祀りする事です。 【嶋村俊表の彫刻】
江戸期の日本文化を一身に体現した天才と言ってよいでしょう。俊表は、川越氷川神社本殿(1842年から関与、埼玉県指定文化財)、成田山新勝寺釈迦堂(1857年、国・重要文化財)なども手がけ、残した作品のすべてが文化財に選定されていることからもその才能の素晴らしさが証明されてる。中でも田無神社本殿(東京都指定文化財)は東京芸術大学学長の宮田亮平氏の言うように、天才・俊表の生涯における最高傑作ともいえる圧倒的な作品。ここに江戸期日本文化の結晶を見ることができます。 【わんぱく相撲】
青年会議所主催により大鵬土俵で行われます。
子供たちが一生懸命に取り組む姿を見せてくれます。
どうぞ小さいお子様のいらっしゃる方はご参加ください。
天候等により、田無神社で行われない場合もあります。 【例大祭】
本宮では午前10時に雅楽の音が響き巫女舞も奉仕される中、例祭祭典が厳粛に斎行されます。引き続き神幸祭が執り行われ、5時間かけて「本社神輿」が田無の町を練り歩きます。前日の宵宮では、「万燈神輿」が巡行。「万燈神輿」とは、弓張提灯を四面に掲げた神輿のことを言います。提灯の数は 数十から百個を超え、灯が入り 闇夜に揺れ動く姿は非常に幻想的です。万燈御輿は本社神輿と違い、御霊をお入れしません。すなわち、万燈神輿の担ぎ手は、地域の人々の気ちをのせて田無の町を練り歩きます。
【人生最大の節目の日 それは田無神社で挙げる結婚の儀】 【四つの特別な儀式】
一.参進
朱傘のもとしずしずと進む花嫁行列「参進」雅楽の調べと神職の先導で厳かに始まる神前結婚式。
優雅で美しい参進の光景は参拝者をも魅了します。 二.神主・巫女装束で撮影
ご希望のお二人には神主・巫女の装束を着ての写真撮影サービスも承ります。
また田無神社で挙式をしたお二人だけに特別な御朱印をお授けいたします。 三.艶やかな傘でお二人をお出迎え
結婚式を挙げて晴れてご夫婦となったお二人。
お二人の大切な皆さまが祝う艶やかな傘のトンネル。
これからお二人が共に歩まれる人生の道にも、今日ご参列者の皆さまの優しい気持ちの傘がさしかけられるでしょう。 四.きりぬさ
紙ふぶきのように見えるのは『きりぬさ』です。
神道では古くからお清めに用いられてきました。お二人のために神職が心を込めて紙ふぶきを作り、麻を混ぜたものです。
ご参列の皆さまが『きりぬさ』でお二人の歩む未来への道を清めます。 【田無神社参集殿】
境内の国登録有形文化財『田無神社参集殿』の披露宴。境内ですので煩わしい移動もなく行えます。お色直しなどもお手伝いいたします。
仕出しの懐石料理や提携ホテルのお料理もご用意いたし、専門のスタッフが給仕も致しますので、ご相談ください。

都心の真中にある緑豊かな神社 乃木神社の御祭神乃木将軍ご夫妻は、偕老同穴の契をまっとうされ、夫婦和合の神様としてお祀りをされています。
当社では御祭神ご夫妻の御神徳に神習い、結ばれた絆の末永からんことを祈り皆様方に笑顔と慶びあふれる結婚式をご提案しております。

「門出の庭」
神社は祭祀と祈りの場。婚礼の儀式には日本伝統の 端正な時が流れます。
神聖な空間は、 新たに伴侶となるお二人の門出を、威儀とともに優しく包み込みます。
「祝福の輪」
ご家族。ご親戚。ご友人。そしてお二人を見守り続けて来られた多くの方々。
この日この場に集い、お祝いの気持ちを分かち合い祝福と幸せの輪が広がります。 「そして末永く」
お二人の始まりの場所は、ここで結ばれた絆の末永からんことを お祈りしつつ、これからも在り続けます。 挙式概要 乃木神社の結婚式では多くの方にご参列いただけます。お二人の門出を、たくさんのご友人やご来賓の方に見守っていただきましょう。
●参列可能人数/親族30名、友人来賓63名※人数が上回る場合は応相談
雅楽の生演奏つき。プロの雅楽奏者による舞楽”納曾利”をお楽しみいただけます。 境内には季節ごとの花木に囲まれ、四季折々の表情をご覧いただけます。

池袋西口地域の氏神さま 御鎮座の年代ははっきりしていないが、第百六代正親町天皇の御世天正年間(1573~1592)頃といわれ、その百年後の貞享四年(1687)に社殿創建(岸野六之助氏の調査)といわれる。また、古老の話によると武田勝頼(1546~1583)の家臣団が甲州より池袋の地に逃れ、持参してきた神宝でこの地に神社を造営したという伝承も残っている。爾来池袋下上の丘に鎮座し池袋駅西口一帯(池袋・西池袋)の鎮守の社として崇敬されてきた。
嘉永六年(1854)に社殿が造営され、幕末明治期には絵師 堤等川による大絵馬が数面奉納されている。昭和13年(1938)には村社に社格が昇格し、社名が三嶽神社から御嶽神社に改称される。
昭和34年(1959)社殿改築 昭和39年(1964)本殿増設 昭和45年(1970)社務所改築 昭和46年(1971)神楽殿を移設・神輿庫の新築・手水舎参道を整備する。昭和62年(1987)宮神輿・宮神輿庫が奉納され、平成元年(1989)由緒板、平成5年(1993)には鳥居が奉納、平成14年(2002)梟親子像が設置された。
池袋の袋と鳥の梟の発音が良く似ており、また梟は苦労を除き福を呼込む(不苦労・福籠)神様とも言われる事から、近年梟のお守りが授与されている。 【ご祭神】
倭建命  ヤマトタケルノミコト   末社 子育稲荷神社   
神武天皇 ジンムテンノウ      保食神 ウケモチノカミ
武甕槌命 タケミカズチノミコト               【ご神徳】
主祭神 倭建命の神話『天叢雲の剣』(倭姫命から天叢雲の剣(草薙の剣)を得て威霊によって駿河の野火の災難を逃れた)から災難除・厄除・防火にご神徳があると伝えられている。また、子育稲荷神社は、子育て・子授け・安産に崇敬を集めました。
【ご祭礼】
九月第四土曜日宵宮・翌日曜日例大祭として池袋西口地域に神輿が巡行致します。
神前式・設備のご案内 【本殿内】 【本殿内 新郎新婦お席位置】 【控室】 【参進の儀】

縄文の遺跡が残る歴史豊かな代々木の総鎮守 鎌倉時代、二代将軍・源頼家の側近であった近藤三郎是茂(これもち)の家来で荒井外記(げき)智明(ともあきら)という方が、頼家公暗殺の後、名も宗祐(そうゆう)と改めてこの代々木野に隠遁し、主君の菩提を弔って暮らしていましたが、時に建暦2年(1212年)8月15日夜、霊夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得しました。そこで同年9月23日、元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされています。 代々木八幡宮がお祀りしている神さまは応神(おうじん)天皇=八幡=さまです。 八幡さまは古くは朝廷や武家からの崇敬をあつめ、国家鎮護、破邪顕正の神と仰がれました。 その強いご神徳から「厄除開運」の神さまとして全国で鎮守の神として祀られました。応神天皇さまの時代は、大陸文化が多く渡来したことから「産業・文化の発展と守護」の神、 またお母上である神功(じんぐう)皇后さまとの神話から安産・子育て・家内安全の神として「怨霊退散」「渡航安全(交通安全)」の神としてもあがめられています。 【沿革】
当社は草創以来、社僧の手によって管理されてきました。当社の別当寺であった福泉寺の文書によれば、 天保元年(1644)伝養律師という方が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、 三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれています。これは大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、 紀州家側室・延寿院殿が甥であった長秀法師のために社地6000坪を始めとする数々の寄進をしたことで実現しました。 明治維新以降、神仏混淆が禁止され当社は村社に列せられました。 江戸時代からの稲荷社、天神社の末社に加え、旧代々木村にあった小さな神社が合祀され、 天祖社(天照大神)と白山社(白山大神)が八幡さまの配座に祀られることになりました。
代々木八幡宮のご結婚式 新宿、渋谷から車で10分、都会に残る緑豊かな鎮守の杜で神前式を・・・ 挙式料: 6万円
親族盃30名様以上は、神酒料として+1万円が発生致します。
ご希望の場合、雅楽生演奏2万円・介添え1万円別途追加料金で承っております。

日本武尊を主祭神に祀る神社で、1350余年の歴史を有する神社 孝徳天皇白雉二年(651年)創立と伝えられ、白鳥明神の那は、八幡太郎義家公奥州征伐の折、白い鳥に浅瀬を教えられ、軍勢をやすやすと渡すことができたとき、鳥越大明神の御社号を奉られたいわれる。
来年(2019年)御鎮座1369年を迎える事になる古社。 1350年余の昔より続く鳥越神社。源 頼義・義家が東国鎮定に向かう折り、難儀した渡河の際、2人の前に一羽の白鳥が飛んできて浅瀬に下り立ち、そこならば、対岸に渡れる事を悟しました。そのおかげもあり、軍勢を無事対岸に渡し東国鎮定を見事果たしました。八幡太郎義家公はこれを、白鳥明神の御加護であるにちがいないと、山頂の本社に参拝し、鳥越大明神の御社号を奉ったということです。以後、鳥越神社と称されるようになりました。
お祭事でも名高い鳥越神社。東京一の重さが有ると言われる千貫御神輿の渡御は特に有名で、その荘厳かつ幻想的な様は、人々の心を震わせ、言い表わし様のない感動と光景を見る者の胸に焼き付けます。また、とんど焼き、水上祭形代流し、茅の輪くぐり等の行事も非常に有名でお祭り好きにはたまらない東京を代表する神社です。 【鳥越まつり】
鳥越神社は蔵前橋通りに面し、1350年の歴史のある神社です。日本武尊を主祭神に祀り、 1月8日とんど焼きや、6月9日に近い日曜日に繰り広げられる、大みこしの渡御が有名です。 鳥越神社の御本社御輿は、千貫御輿といわれ東京一の重さが有ると言われています。 御神輿の列の先頭には、猿田彦(天狗)や、手古舞連、子供たちの持つ五色の旗が、歩きます。 夜まつりになると、提灯をつけた元祖提灯神輿は、高張り提灯に囲まれ宮入りします。

学問の神様 湯島天神 湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。
明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。
明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。
元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 創建は古く、雄略天皇2年(458)と伝えられる。
太田道灌が再興、徳川家康は江戸入りの際、神領五石を寄進している。
菅原道真を祀るこの神社は、学問の神様として別名湯島天神としても広く知られている。
境内には銅製の鳥居や、迷子探しの奇縁氷人石がある。
また、江戸時代には谷中感王寺(天王寺)、目黒不動と並び三富と呼ばれ、幕府公認の富くじ(富突き)を発行した。
泉鏡花作の新派の名作『婦系図』の舞台としても有名で、新派の記念碑や鏡花の筆塚もある。 新社殿は、ご本殿と、参拝する人のための拝殿が幣殿で結ばれている「権現造り」の建築様式で、日本古来の「木の文化」を象徴する純木造である。
現在の建築基準法では、たとえ社寺建築であろうと防火地域では新たに木造建築は認められていないのだが、万全の防災設備をととのえ、(財)防災性能評定委員会の一年近い慎重審議を経て、建設大臣認定第一号として特に木造建築が許可された。建材は、営林署と木曽木材組合の全面的な協力を得て、樹齢二百五十年といわれる木曽檜を使用しています。 旧社殿の土蔵造りは江戸幕府が頻繁に起こる火災のため、「焼け跡に建てる家はすべて塗家土蔵造り瓦屋根にせよ」という防火対策を引き継ぎ、明治十八年に立て替えたものです。新社殿の外観上、特に目につくのは正面屋根の大きな三角部分です。これは神社の地形を考慮したもので、神社の南側の通りに面した鳥居のある場所が社殿の場所と約一メートルの高低差があるため、「妻」と称される三角部分をより大きくして拝殿を立派に見せています。 総檜造りのご社殿での挙式 渡り廊下を渡ると、そこは総檜造りの新社殿。
万葉の浪漫と気品あふれる本格的な神前式。
美しい雅楽の調べ、豊栄の舞で、おふたりの門出を祝福し、愛と幸せを末永く結びます。 挙式は、本殿のご神前で厳粛に行なわれます。
おおらかさをたいせつに、落ち着いた寡囲気の中でお二人の愛を誓い、かみしめていただくのがねがいです。
「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花」の菅公の御歌とともに、一生忘れ得ぬひとときとなることでしょう。 婚礼式次第

一、参進 雅楽奏楽
一、修祓
一、祝詞奏上
一、誓盃三献 (三三九度の盃) 雅楽奏楽
一、誓詞奏上
一、玉串奉奠
一、指輪の交換
一、豊栄の舞 雅楽奏楽
一、親族杯の儀 雅楽奏楽
一、斎主挨拶
一、退出 雅楽奏楽

江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に記載されている江戸九社の一つ『大鳥神社』 景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社やしろがありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣とつかのつるぎを当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されており、この江戸図に記載される社は九社しかなく、大鳥神社はその悠久の歴史から、江戸九社の一つにかぞえられております 平安時代に創建され、約1200年の歴史を誇る目黒の大鳥神社。毎年11月の「酉の市」は有名で、商売繁盛・開運招福の神様です。家族に囲まれての結婚式にぴったりな神社。社殿と渡り廊下でつながる、社務所の控室において、新郎新婦のご披露と親族紹介をした後は、平成の改修工事を終えた御社殿にご案内し神前式が始まります。 11月の酉とりの日に行われる「酉とりの市」は、日本武尊やまとたけるのみことを祭神とする鳥明神の特殊神事。古代、熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)を平定した尊の戦勝記念と尊が焼津で火難を防いだことに由来する火難除けの神事であったと伝えられる。 大鳥神社に伝えられている太々神楽だいだいかぐら「剣の舞」は、日本武尊の徳をたたえ、十握つかの剣を背に八つかの剣を使って踊る荘厳な舞いである。毎年9月9日に近い日曜日に行われる「例大祭」で奉奏される。太々神楽(だいだいかぐら)は、神前で祭典中に舞うもので、ヒョットコやオカメが出てくる里神楽(さとかぐら)のようなレクリエーション的な要素はない。「剣(つるぎ)の舞」もまた、剣で邪悪を払うという古い神事そのものが芸能としての舞になったものともいわれる。 ご結婚式について 平安時代に創建され、約1200年の歴史を誇る目黒の大鳥神社。毎年11月の「酉の市」は有名で、商売繁盛・開運招福の神様です。 家族に囲まれての結婚式にぴったりの神社。社殿と渡り廊下でつながる、社務所の控室において、新郎新婦のご披露と親族紹介をした後は、総檜造りの御社殿にて神前式が始まります。 神前式の最後に頂ける、宮司様からの心温まる祝辞は新郎新婦の出発にとても 花が咲く、はなむけのお言葉です。

下谷神社は奈良時代に創建され、「お稲荷様」として親しまれています。 日本武尊は第12代景行天皇の皇子であり、「智・仁・勇」を兼ね備え諸国を平定して御恩威を四方に輝かされました。
当神社は、人皇第45代聖武天皇の御代天平2年(西暦730年)に峡田稲置らが、大年神・日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ケ丘の地にこの二神をお祀りしたのが創めであると伝えられています。
第61代朱雀天皇の天慶3年田原藤田秀郷が相馬に向かうとき当神社に参籠して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新たに造営しました。降って寛永4年寛永寺を建立するに当たり、社地を上野山下に移されましたが狭いので延宝8年更に広徳寺門前町に替地して社殿を造営しました。当神社は昔から「正一位下谷稲荷社」と称し祀られていたので、この時からこの町を稲荷町と呼ぶようになりました。
明治5年に神社名を「下谷神社」と改め、翌6年郷社に昇格いたしました。

大正12年の関東大震災のため、社殿を悉く焼失し仮社殿に遷座しましたが昭和3年土地区画整理により改めて社地を現在の所に定め、同6年社殿造営の工事を起こし同9年完成し本遷座し祀りました。
その後、東京は御承知のように戦争の災禍に遭いましたが、当神社は御祭神の偉大な御神徳により、奇しくも御神体御宝物はもとより、社殿全建物に聊かの損害もなく、平成5年には社殿屋根の修復、平成10年には床の補修工事を終えてその荘厳さを保ちつつ現在に至っております。
尚、当神社は寛政10年(西暦1798年)に初めて寄席が行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑が建立されております。
下谷神社拝殿天井絵「龍」(横山大観画伯筆)
本殿にある竜の天井画は、日本近代画の巨匠、横山大観の作。湧き立つ雲の中に突如として現れる竜を描いた水墨画。本図は代表作「生々流転」(国立近代美術館蔵)などにもその片鱗は見受けられ、天井画はその時期に描かれた貴重な大作の一つとなっています。
パワースポットかつての弥盛成地(いやしろち)とは、大地のエネルギーが空間に溢れている場所で大地のエネルギーから癒しや活力または自己変化のきっかけを与えられる場所、または神聖な場所・清い場所・神や仏がやどる所・草木が育つ元気(生命活動の源)の出る場所と云われています。当神社は「水」「芸能」のパワーが強い場所と云われております。
職業では水に関連する職業、芸能に関係する職業にいい影響を与える、また個人では、過去を水に流す、何かを清算するなど新たな門出にもいいと云われています。 当社では猛暑日にこのドライミストを稼働しています。参拝者の方々に少しでも涼を感じて戴ければ幸いです。
また、手水と同じく、水には清めの効果もあります。この下を潜り、清らかな心で参拝いたしましょう。
ドライミストは、水を微細な霧の状態にして噴射し、蒸発する際の気化熱の吸収を利用して主に地上の局所を冷却する装置です。水の粒子が小さいため素早く蒸発し、肌や服が濡れることもありません。 【神前結婚式】 挙式は神聖な御社殿で厳粛に執行いたします。当神社では挙式のしきたりとして、儀式の最初に新郎新婦がそれぞれの親族席に分かれて座ります。挙式の始まりは親族が待っている本殿へ神職に導かれた新郎新婦が入場し、それぞれ親族同士向い合う形式で座っている席に、新郎新婦も分かれて着席します。 式が進み誓詞を奏上し正式に夫婦と認められた後、ここで初めて新婦が新郎の親族席に移動し一緒に座ることになります。これは日本古来の「結婚とは新婦が新郎の家に入り家族になるもの」という伝統を体現したものです。このしきたりは下谷神社で神前式を執り行うようになった当初からの伝統でございます。 控室
・広間(45畳)1万円・着替室 5千円
貸衣装
・当日御使用なさる衣装・美粧・着付け等、ご紹介・ご案内致します
※衣装持ち込みの場合は3万円申し受けます。
・御新婦様の美粧・着付けは挙式時間の2時間前より致します。
記念写真
◎記念写真を御希望される方は、予めお申込み下さい。
※カラー6つ切り
2枚1組1万8千円(台紙付)焼増し1枚4千5百円(台紙付)

江戸東京を見守り続ける神田明神 江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ神田明神。
江戸時代には、「江戸総鎮守」として将軍様から江戸庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されました。

社伝によると、当社は天平2(730)年に出雲氏族・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡柴崎村(現・東京都千代田区大手町、将門塚周辺)に創建されました。

その後、天慶(てんきょう)の乱(939~940年)に敗れた平将門公の首が葬られ、天変地異の怪異が続き住民が窮したところ、時宗の真教上人がその祟りを鎮め、延慶2(1309)年には将門公が神田明神の祭神として祀られました。当初、神田明神は皇居のほとり(現在の大手町)にありました。

江戸時代に入ると、幕府を開いた徳川家康は当社を深く尊崇し神領を寄進しました。幕府の発展と城下の大規模な造成により、元和2(1616)年には現在の地に移転。この地は、江戸城の丑寅(うしとら)の鬼門にあたる場所で、江戸総鎮守神田明神にふさわしく、幕命により桃山風の壮麗な社殿が築かれました。

江戸時代の神田祭は天下祭とも呼ばれ、華麗な山車が36台も続き、将軍上覧の天下第一の祭礼として全国に知れ渡りました。現在は祇園祭(京都)、天神祭(大阪)と並び、日本三大祭として江戸っ子が楽しみにしているお祭りです。

明治時代には東京府社に定められ、明治7(1874)年には明治天皇の御親拝が行われました。
関東大震災では、社殿をはじめとした建物がすべて灰と化し、昭和9(1934)年に神社建築として画期的な、鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗の社殿を再興。平成7(1995)年より「平成のご造替事業」を開始し、境内の建物の塗り替えと修復を行い、現在に至ります。
江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ神田明神。
江戸時代には、「江戸総鎮守」として将軍様から江戸庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されました。

そして今もなお、東京―神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様として、江戸の素晴らしき伝統文化を保ちつつ、
それでいて絶え間なく発展と創造を繰り返す、この東京都心をお守りいただいております。
神田明神の氏子町である東京108の町は、江戸と東京の生活や文化が凝縮された町々です。
【古式ゆかしい縁結びの神様】
社殿に向かって一筋にのびる赤い絨毯   雅楽の音色をともなって白無垢の花嫁が人生の1歩を歩みだす

江戸時代より明神様と呼ばれ、『縁結びの神様』として親しまれてきた江戸の総鎮守・神田明神。 現在(いま)でも“粋”なままに、神田・日本橋・秋葉原・
大手町・丸の内など、108ヶ町の総氏神様として江戸の素晴らしい伝統文化を保ち、絶え間ない発展と創造を繰り返すこの都会(まち)を守り続けています。 ゆったりとした空間に響く雅楽の音色に包まれて、厳粛な神前式が執り行われます。伝統美を感じる朱塗りの社殿は、人生最良の日にふさわしい神聖な場所です。神田明神では、明治40年代より、社殿での挙式を行っており、新郎新婦のお席は、おふたりが向かい合わせになるように配置しています。
【結び石の儀】
神田明神独自の儀式で、白いお石に新郎新婦が署名をして、神社へ奉納していただく儀式です。結び石は、一般では入ることのできない神社内庭聖域に納めます。
ご両家の末永いお幸せを祈念いたします。 明神会館のご案内 明神会館は、その古式ゆたかな由緒ある神田明神の境内にたたずむ、神前結婚式場の草分けとなった伝統ある結婚式場です。
楽人の奏でる雅楽の音を先頭に、末広朱傘でしとやかに式場へと進む「参進」の儀式。そして社殿正面の「大前」や格式高い「奥御殿」で、縁結びの神に誓う印象あざやかな式を・・・。
【千歳の間】
大きな窓から陽光がこぼれる心地好さをもった披露宴会場は、落ち着きのある内装やインテリアなどでコーディネート。お二人のさまざまなリクエストにお応えするために、宴席やスピーチ舞台のレイアウト変更ができます。
千歳の間は、最大42名様までご案内いたします。 【竹の間】
10名様から最大170名様まで収容し、さまざまなスタイルの披露宴に対応できます。 祝宴を美しく演出する司会者やエレクトーン奏者をはじめ、神前式にはぴったりの鏡開きなどと、効果的な演出も数多くご用意しております。
竹の間は、最大130名様までご案内いたします。 【ブライダル料理】
和食会席料理コース、和洋会席料理コースどちらとも、各食材には1品1品お祝いの意味が込められています。季節ごとに食材を変え、皆様に料理を堪能していただけます。
「相性鯛のお造り」は、夫婦の鯛が寄り添って泳ぐ様を表現した、鯛の活き造りです。調理人が皆様の目の前で盛り付け致します。 【関連施設】
<更衣室>ご列席者様の更衣室(地下2階)も完備しておりますので、お気軽な服装でお越しいただき、こちらでお召し換えをしていただけます。
<お控室>ご親族様のお控室は挙式の1時間前からご利用いただけます。
<クローク>館内1階にてお荷物のお預かりいたします。更衣室にもコインロッカー用意

「三社さま」として親しまれている浅草神社 推古天皇の三十六年三月十八日のことでした。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。

兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになりますが、これは少々無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。

今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。 下町情緒溢れる浅草で「三社様」として広く親しまれている浅草神社。 重要文化財の社殿にて、雅楽の調べに合わせた昔ながらの厳粛な挙式。 境内の参進では参拝者から祝福の声があがり、温かい拍手が送られる様は下町ならでは。
建造されてから350年以上経過している歴史のある社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなり、幣殿と拝殿が渡り廊下でつながれているいわゆる権現造りと呼ばれる建築様式で、日光の東照宮などがこれにあたります。その他、境内内には神楽殿、神輿庫などがあります。 挙式を行う国の重要文化財の社殿は徳川三代目将軍家光公により寄進され、350年たった今もそのままの姿を残している大変歴史ある建物です。1件1件事前に式の流れに沿ったリハーサルを行うので、当日気持ち的にも余裕を持って式に望む事が、厳かな中にも家庭的で温かい挙式がおこなえます

神社結婚式のご案内

結婚式は、結婚するふたりの「心」と「心」を繋ぎ、
ご家族同士の「心」と「心」をも繋ぐ大切なもの。
おふたりの、ご夫婦としての出発は、
ぜひ、神社の結婚式で。

ご相談・お問い合せは神社結婚式相談所